เข้าสู่ระบบ病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。
ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り……」 声にはならない。 空気が漏れるような、かすかな音だった。 それでも分かった。 名前を呼ばれたのだと。 幼い頃、夜会で失敗して泣いた私に、静江さんは膝掛けをかけながら言った。 ――家の名前で立つんじゃないよ。自分の足で立ちなさい。そうすれば、どこに行っても栞は栞でいられる。 皆が私を見る目を変えていったあとも、静江さんだけは変わらなかった。 私が家を追い出された時も、最後まで「この子がそんなことをするはずがない」と言ってくれたらしい。 けれど、その直後に容体が悪化した。 高級療養施設に移されたあと、私は面会すら許されなかった。 三年分の言葉が喉につかえて、何も出てこない。 涙だけが落ちた。 「来ました。ちゃんと、会いに来ました」 静江さんのまぶたが、わずかに緩んだ。 そのまま彼女は、私の手を握ったまま、深い眠りに落ちた。 一時間後、病室を出ると、廊下には隆一が立っていた。 「本家に来てくれ。祖母の件で、話がある」 その一言で、体の中に残っていた熱がすっと引いた。 やはり、そういうことか。 病院へ呼んだのは、静江さんのためだけではなかったのだ。 黒い車に乗せられ、三年間一度も近づかなかった如月本家へ向かった。 門をくぐった瞬間、肩がこわばる。 追い出された夜と同じ石畳。同じ玄関。同じ、古い木の匂い。 もう傷ついていないと思っていたのに、床板を踏むたび、濡れた靴下の冷たさまで思い出した。 客間には、養母の琴美と未央がいた。 琴美は私を見るなり肩を揺らし、すぐに視線を膝の上のハンカチへ落とした。 未央はシルクのワンピースの裾を整えながら、柔らかく笑っている。 外から見れば、品のいい令嬢そのものだ。 その笑みの下にある薄い悪意を、私はもう知っている。 「お姉ちゃん、急に呼び出してごめんなさい。こんな時間まで働いてたのね」 未央は私の腕に触れようとした。 私は反射的に一歩下がる。 彼女の指先が、空を掴んだ。 一瞬だけ、未央の目が冷たくなる。 「……ずいぶん、大変そう」 最後の一言だけ、甘く濁っていた。 「静江さんに会わせてもらったことには、感謝します。それで……まだ何かありますか」 未央を見ずに、隆一へ視線を向ける。 隆一は対面のソファに腰を下ろし、深く長いため息をついた。 「単刀直入に言う。如月グループは、破産の危機に瀕してる。今月末の不渡りを出せば、すべてが終わる」 笑いそうになって、やめた。 静江さんをどれほど心配しているのかと思えば、結局は会社だ。 祖母の治療費も、社員の生活も、家の体面も、この人の中では同じ帳簿の上にあるのだろう。 「そうですか。それで、如月家の恥だと切り捨てた私に、今さら何をさせたいんですか」 隆一は苦いものを飲み込むように喉を動かした。 「救う手立てが一つだけある。榊グループとの政略結婚だ。先方の当主、榊律氏から、如月家との縁談の打診があった」 榊律。 名前だけなら聞いたことがあった。 経済界の閻魔。 数年前の事故で顔に大火傷を負い、車椅子生活になり、人前では黒い仮面を外さない男。 誰も素顔を見たことがないという噂つきの、榊グループ当主。 「候補なら、そこにいるでしょう。“本当の娘”の大切なお嬢様が」 私は未央を見た。 未央はすぐに琴美の腕へしがみつく。 「私は無理よ。あんな人とだなんて……それに、司さんとの結婚式だって二か月後に決まってるのに」 司さん。 その名前を聞いた瞬間、胃のあたりが小さく縮んだ。 もう関係ない。 三年前に終わった人だ。 そう分かっているのに、古傷に指先を置かれたような痛みだけが残る。 痛むだけなら、まだよかった。ほんの一瞬だけ、未央が羨ましかった。あの夜に私の電話を切った男の名前を、何の傷もない顔で口にできることが。奪った側の人間みたいに、好きなものを好きだと言えることが。 そんな感情を持つ自分が嫌で、私は膝の上の指を強く握った。司に戻りたいわけじゃない。それでも、奪われたものを未央が飾っているのを見ると、まだ胸のどこかが汚く疼いた。 「お母様、私には司さんがいるの。榊様がどれほど立派な方でも、顔を隠していらっしゃるような方と結婚するなんて……私には、とても」 上品に震える声。 けれど、次に向けられた目だけは冷たかった。 「お姉ちゃんは、十五年もこの家で育ててもらったんでしょう? だったら今度くらい、この家のために動いてくれてもいいんじゃない?」 琴美は何も言わなかった。 未央の肩を弱々しく撫でるだけだ。 三年前と同じだった。 誰も私を見ない。 誰も私の言い分を聞かない。 都合のいい時だけ、家族という言葉を持ち出す。 隆一が顔を上げた。 その目には、懇願と、拒絶を許さない経営者の冷たさが混ざっていた。 「栞。如月家を救ってくれ。榊家の正妻となれば、生活に困ることはない」 部屋が静まり返る。 私は膝の上の手をほどき、もう一度、指を組み直した。 怒りだけで返事をすれば、この人たちの思う壺だ。 泣いて拒めば、また「わがままな偽物」として片づけられる。 本当は、泣き叫んで全部投げつけたかった。静江さんの名前まで使って私を呼び戻したことも、司の名前をわざと聞かせる未央の顔も、何も言わない琴美の沈黙も、全部まとめて壊してしまいたかった。 でも、ここで壊れたら、壊した人間ではなく、壊れた私だけが記録に残る。そういう家だ。私はそれを、嫌というほど知っている。 なら、こちらも利用すればいい。 静江さんがいなければ、私はこの部屋に戻ることすらなかった。 あの人が最後に望むなら、逃げるだけでは終わらせない。 如月家が私を道具として差し出すなら、その縁談を、今度こそ如月家から離れるための書類に変えてやる。 「……いいですよ。受けます。結婚でも身売りでも、好きな名前をつければいい」 未央の目が、わずかに光った。勝った、と思った顔だった。 その顔を見た瞬間、胸の奥で何かが焼けた。なら、勝ったつもりのまま見ていればいい。私はその勝ちを、出口に変える。 口にした瞬間、部屋の空気が止まった。怖くないわけではない。ただ、怖いからといって黙って売られるのは、もっと嫌だった。 隆一の目に、一瞬だけ信じられないという色がよぎった。 未央の唇が、勝ち誇ったように歪む。 「ただし、条件があります」 私はバッグから、いつも持ち歩いている小さなノートとボールペンを取り出した。 この三年で身についた癖だ。口約束は信用しない。書いたものだけが、最低限、他人の記憶より長持ちする。 「条件があります。三つ……いえ、最低三つです。如月家とは完全に縁を切る。私は如月姓を捨てて、朝霧栞として榊家へ行く。債務も保証も親族の揉め事も、二度と私に持ち込まない。……口では信用しません。署名と実印入りで、紙にしてください」 「栞、お前……」 「会社を守りたいのでしょう」 私は、まっすぐ隆一を見た。 「なら、私の人生を差し出させる代金くらい、口約束じゃなく、紙で支払ってください」 未央の笑みが薄くなった。 琴美がようやく顔を上げる。何か言いたそうに唇を開いたが、結局、何も出てこなかった。 隆一は長い沈黙のあと、深く息を吐いた。 「……分かった。書類を用意させる」 「では、決まりですね。……紙になるまでは、まだ信じませんけど」 立ち上がる。 これ以上、この部屋の空気を吸っていたくなかった。 重い扉を閉めた瞬間、長い廊下の向こうに人影が見えた。 整えられた髪。 上質なスーツ。 三年前、雨の夜に私の電話を切った男。 桐生司が、そこに立っていた。「ご丁寧にありがとうございます」 律の声は平らだった。 いつもの冷たさとは少し違う。表に出す感情を意識して消している声だ。 車椅子の車輪がカーペットに沈み、金具が一度だけ小さく鳴った。 康生の視線が、律の黒い仮面を一度なぞった。 顔を見るというより、噂との違いを確かめている目だった。「お噂とは、ずいぶん違うご様子で」「噂は便利です」 律はすぐに返した。「人が何を見たいか、よく教えてくれる」 康生は、口元だけで微笑んだ。「なるほど。さすが榊家の当主でいらっしゃる」 褒められた気はしなかった。 私は一歩だけ、律の車椅子の横へ寄った。逃げるつもりはなかったが、一人で平気なふりをする余裕もなかった。 私が律の横へ寄ったことを、康生は見逃さなかった。「こちらが、朝霧栞さんですね」 朝霧、のところで一拍、間があった。 如月ではないことを確認したような間。「朝霧栞です」「はじめまして。九条康生と申します」 差し出された名刺はなかった。葬儀の場だからかもしれない。ただ、名刺を出さなくても名だけで通じると知っている人の名乗り方だった。 私は頭を下げた。「祖母のためにご弔問いただき、ありがとうございます」 口にした「祖母」の二文字が、うまく息に乗らなかった。 康生はその言葉を聞いて、目を細めた。「よい方でした。静江様は、昔から人を見る目のある方だった」「祖母をご存じだったんですか」「ええ。直接深いお付き合いがあったわけじゃありませんが、如月家とは古い縁があります」 如月家とは。 私とは言わない。 静江と深い付き合いがあったとも言わない。 それ以上は足さなかった。 律は何も言わない。 その静けさが、かえって妙だった。普段なら、必要なところで短く線を引く。けれど今は、康生の一語ずつを聞いている。 私は受付台の方を見た。 香典袋の紋。 守り袋の刺繍。
線香の煙は、時間が経っても薄くならなかった。 窓辺のレースカーテンが、空調の風で揺れていた。 焼香台の前を人が通るたび、線香の煙が形を変えた。菊と線香の匂いが、口の中に残っていた。泣き声はもう少ない。親族たちは控室へ移り、葬儀社の人が祭壇脇の供花札を一枚ずつ確認している。 私は受付台の端に置かれた香典袋から、目を離せなかった。 九条康生。 黒い墨で書かれた名前は、他の弔問客のものよりも整っていた。整いすぎていて、紙そのものが温度を持っていないように見える。 右下に押された小さな紋。 守り袋の刺繍と似ている。 ただ、同じだと断言するには、まだ細部が違う。 蔵で見た古い布の感触が、指先に戻ってくる。手袋越しだったのに、あの布の柔らかさだけが皮膚の内側に残っていた。「栞」 低い声が、横から落ちた。 律は車椅子に座ったまま、祭壇ではなく受付の奥を見ている。視線の先で、九条康生が焼香台から離れたところだった。 康生は急がない。 会釈する相手には、相手が先に頭を下げるまで待つ。声をかけられれば微笑む。遺族に慰めを述べる時も、言葉の量は多すぎない。 その所作だけなら、礼儀正しい人に見えた。康生は焼香を終えると、親族席、受付台、私の順に視線を動かした。「戻りますか」 律が訊いた。 私は香典袋から視線を外した。「まだ、帰りません」「顔色は悪いです」「今日、もう何度か言われました」「では、私からは一回だけにします」「……一回なら」 律はそれ以上言わなかった。「何か起きてからでは遅いこともあります」「分かっています。でも、今は残ります」 声が硬くなった。 律は一度だけ頷いた。「言い方が強すぎました。すみません」「……謝るところじゃないです」 言ってから、袖の下で指を握る。 ありがとうと言う前に、肩に力が入った。気づいて、袖の中で指をほどいた。
受付で香典袋を差し出す。 白い封筒の隅に、見覚えのある紋があった。 その紋を見た瞬間、受付台のざわめきが遠のいた。 守り袋の裏にあった、あの刺繍に似ている。 男が顔を上げた。 視線が、まっすぐ私へ向かう。 知らない人のはずだった。 知らないはずなのに、足が一歩も動かなかった。 律の手が、車椅子の肘掛けに置かれる。 相良さんの表情が消えた。 男は、ゆっくり歩いてきた。「如月静江様には、昔、一度だけお世話になりました」 声は丁寧だった。 丁寧すぎて、かえって息が詰まる。 隆一が慌てて近づいた。「九条様。まさか、ご弔問いただけるとは」 九条。 その二文字を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。 男は隆一に軽く頷き、けれど視線は私から動かさなかった。「こちらの方は」 隆一が答えるより先に、律が言った。「朝霧栞さんです」 男の目が、細くなる。 それは笑みではなかった。「朝霧」 ゆっくり、確かめるように繰り返す。「そうですか」 私は何も言わなかった。 言葉を返したら、何かを掴まれそうだった。 男は一歩だけ近づいた。 焼香の匂いと、濡れたコートの匂いが混ざる。「よく、似ていらっしゃる」 誰に、とは言わなかった。 焼香の列のざわめきがふっと薄くなった。 私はバッグの奥の守り袋を意識した。 男の視線は、私の顔から離れない。「失礼。初対面で言うことじゃありませんでしたね」 そう言って、男は名刺を差し出した。 九条康生。 白い名刺の文字が、やけに濃く見えた。 受け取るか迷った瞬間、律が低く言った。「弔問の場です。名刺交換は、後日に」 康生の指が止まる。 ほんの一拍。 それから、名刺はゆっくり引っ込められた。「榊様は、相変わらず慎重でいらっしゃる」「
言葉はそこで止まった。 正しいとも、よく言ったとも言わない。 私は前を向いた。 祭壇には、祖母の写真が飾られていた。 病室で見た顔より少し若い。白い髪をきちんと結い、背筋を伸ばしている。私が如月家にいた頃、よく叱られた時の顔に近かった。 お焼香が始まる。 隆一、琴美、未央。 未央は泣きながら立ち上がった。動きがきれいだった。誰が見ても、悲しむ孫に見える。 香をつまむ指も、涙を拭う手も、少しも乱れない。 私はその後ろ姿を見ていた。 未央は振り返らない。 ただ、親族席へ戻る時、私の隣に置かれた律の名札を見た。 顔が小さく歪む。 悲劇の孫でいるための場所に、私が座っている。 それが未央には耐えられないのだと、分かった。 私の番が来た。 足元が頼りない。 律が動こうとした気配があった。 でも、手は伸びてこなかった。 私は一人で立ち上がる。 焼香台の前に進むと、抹香の粒が小さな山になっていた。 端をつまむ。 軽い。 こんなに軽いものを落とすだけで、人は別れを形にしようとする。 香炉へ落とした瞬間、白い煙が細く上がった。 祖母の写真を見た。 栞は栞でいい。 もう声は聞こえない。私は写真の前で、しばらく頭を上げられなかった。 席へ戻る途中、琴美と目が合った。 琴美は泣いていた。けれど、私が近づくとハンカチを握る手が止まる。「栞……」 名前だけだった。 私は立ち止まった。「今日は、祖母を送る日です」 琴美の唇が震えた。「それ以外の話は、後日にしてください」 焼香の列がいったん途切れ、受付係が香典帳の頁を整えた。 優しくは言えなかった。 でも、乱暴にも言わなかった。 琴美はゆっくり頷いた。 未央がその横で、ハンカチを強く握った。「お母様、今は…&hel
「待ってください」 声を上げたのは、未央ではなかった。 隆一の弟にあたるという男性だった。名前は、顔だけを何度か見たことがある。三年前、私が追い出される時には、何も言わずに廊下の奥から見ていた人だ。「その席は親族席だろう。彼女はもう如月じゃないはずだ」 その言葉を受けて、親族の何人かがこちらを見る。 琴美が小さく息を呑んだ。 隆一は祭壇の前で僧侶と話していたが、その声に振り向いた。 私は、札の上の自分の名前を見た。 朝霧栞。 如月ではない。 それは私が選んだことだ。「ええ」 私は答えた。「如月家の人間じゃありません。もう」 ざわめきが広がる。 未央の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 私は続けた。「でも、静江さんに最後まで名前を呼んでもらった者です。今日ここにいる理由は、それで足ります」 男性の眉が動いた。「生意気なことを。育ててもらった恩も忘れて」「育ててもらった」という言葉に、昔の癖で肩がこわばった。 育ててもらった。 その言葉は、昔なら逃げ場を塞ぐ縄だった。 でも今日は、少し違った。「恩を忘れてないから、来ました」 私は声を落とした。「売られた記憶まで、恩にはできません」 周囲のざわめきが引いた。 言いすぎたかもしれない。 けれど、言った後の後悔はなかった。 隆一の顔が灰色に近くなる。琴美が口元を押さえた。未央は、一瞬だけ泣く顔を忘れた。 その時、車椅子の小さな車輪の音が聞こえた。 律が、式場の入口から入ってきた。 今日も黒い仮面をつけている。 黒い喪服に黒いネクタイ。顔の半分を覆う黒い仮面。けれど会場の誰もすぐには声を出せなかった。噂の怪物当主としてではなく、榊グループの当主としてそこにいる。その事実が、場のざわめきを飲み込んだ。 律は私の隣で車椅子を止めた。「お話の途中、失礼します」 声は短く、しかし場を遮るには十分だ
焼香の匂いは、病院の消毒液よりもずっと柔らかいはずだった。 葬儀場の厚い絨毯が、靴音を吸い込んだ。 それなのに、息の奥に残ったまま離れなかった。 黒いワンピースの袖口を、私は膝の上で一度だけ摘まんだ。布は新しい。榊家の者が昨夜のうちに用意してくれたものだ。サイズは合っていた。動きにくくもない。 けれど、喪服の黒は、体に馴染むまで少し時間がかかる。 葬儀場の控室には、親族用の白い札が並んでいた。 如月隆一。 如月琴美。 如月未央。 その列の端に、一つだけ違う札が置かれている。 朝霧栞。 隣には、榊律。 札の前で、足が止まった。 如月の列から外されている。けれど、弔問客の端に追いやられているわけでもない。白い札は、親族席の一角に置かれていた。 誰かが決めた席順だ。 たぶん、律だ。「位置を変えますか」 背後から相良さんの声がした。 いつも通り静かな声だったが、今日はわずかに低い。喪服の黒いネクタイがきちんと結ばれている。相良さんは、手にした進行表を胸の前で伏せていた。「いえ。ただ、少し驚いただけです」「……でも、助かります」 相良さんの目が、下がった。「では、そのままご案内いたします」 私は頷いた。 葬儀場の廊下は、昨日の雨をまだ少し残していた。参列者の傘袋から落ちた水が、床の端に薄く伸びている。足を滑らせないよう、ゆっくり歩いた。 式場の入口に近づくにつれて、声が増えた。 親族の小さな挨拶。受付で名前を書く音。香典袋を差し出す時の紙の擦れ。誰かがすすり泣く声。 その中に、未央の声があった。「祖母は、最後まで家族のことを心配してたんです」 涙を含ませた、よく通る声だった。 私は足を止めなかった。「ずっと、私たちを見守ってくれていて……本当に、優しい祖母でした」 受付脇で、未央が親族らしき年配の女性にハンカチを押し当てている。喪服姿は
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。 廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。 目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。 天井が高い。 壁紙の色も、枕の沈み方も、昨日までの狭い部屋とは違う。 掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。 私はしばらく、息を殺していた。 誰かの家に泊まったのではない。 嫁いだのだ。 正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。 そのどちらも、まだ少し遠い。 ベッド脇







